思い違いをしてはいけません
思い違いをしてはいけません

人は誰でも思い違いを経験します。しかし、自分の人生と永遠に関わる問題で思い違いをすることは、日々の生活が充実しないばかりか未来に大変な結果を招くことになります。残念ながら多くの人は、人生の重大な問題に思い違いをしておられるのです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(聖書 ガラテヤ人への手紙 6章7節)

私たちはサルから進化した

私たちは、本当に猿から進化した生物なのでしょうか。進化論からすればそうかもしれませんが、それは事実ではありません。なぜなら、科学的検証によって進化論が真理であると立証されてはいないからです。むしろ進化論を支持できないという科学者が現在、増え続けているからです。

進化論者がいうように、生物が少しずつ進化して別の種になったのだとすると、当然一つの種から別の種に進化する途中の、中間種の化石が発見されるはずです。しかし、いまだにそのような化石は発見されていません。

では、学校の教科書に載っている化石は何なのでしょうか?それら一つ一つを厳密に検証した結果、そのような化石もニュースも、多くの仮想を交えた「作品」であったことが、すでに判明しているのです。

例えば・・・
  • ピルトダウン人:

    チンパンジーのあごの骨を薬品処理して化石化した、偽物であることが判明。否定されました。

  • アウストラロピテクス:

    コンピューター分析の結果、猿であって中間種ではないとわかりました。

  • ネアンデルタール人:

    ジョンズ・ホプキンズ大学のウィリアム・ストラウス博士が、ネアンデルタール人発見百年記念の際にその骨を再点検した結果、現代人と少しも変わったところはないと報告されました。

私たちはサルから進化した

このように進化論には根拠がありません。日本では進化論を信仰のように受け入れる人々がほとんどです。実証されていない仮説に、私たちは、自分の人生と死後の永遠に関する問題を任せていいのでしょうか。

偶然かそれとも意味と目的をもって造られたか、そのどちらの立場に立つかによって、私たちの生き方や世界観がまるっきり違うものになります。それらは人生に大きな影響を与えるものです。ですから安易に信じるのではなく、確かなものを信じるべきではないでしょうか。

もし進化論に私たちの存在理由を置くならば、自分は何のために生まれ、何のために勉強や仕事をしなければならないのか、また、人はなぜ死ぬのか、死後はどこへ行くのか、という重大な問題に答えを見つけることはできません。進化論は、人間に偶然に存在する生物にすぎないと結論するからです。偶然にはなんら目的も意思もありません。なんと虚しい結論ではないでしょうか。

神様のみことばである聖書は、人間の起源についてこのように語っています。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。男と女に彼らを創造された。」(聖書 創世記 1章27節) 「神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、...」(聖書 使徒の働き 17章25、26節)

創造のわざの不思議は、何もエデンの園だけにあるのではありません。神様は、毎日どのようなところでも同じわざを実現させておられます。聖書にはこのようにあります。

「あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ...」(聖書 詩篇 139篇13、15、16節)

このように私たちは、神様の力によって造られたのです。これを読んでいる今も、実は、神様によって生かされているのです。神様は私たちをいたずらに造られず、尊い目的と祝福をもって造られたのです。この事実を知ることによって、自分の存在目的と価値を見いだすことができるのです。確かな道しるべである聖書にこそ自分の人生を任せるべきではないでしょうか。

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