思い違いをしてはいけません
私は死んだら終わりだ!

多くの人は、人間は死ねばすべてが終わりだと思っておられるのではないでしょうか。果たして事実でしょうか。それは人間の想像に過ぎないのではないでしょうか。

もし私たちが死んで終わりなら、なぜ死後のことで恐れるのでしょうか。もし死後の存在がないなら、愛する者の死後をなぜ「天国にいる」と言ったりするのでしょうか。聖書は人間の死後について語っています。

「金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』」(聖書 ルカの福音書 16章22-24節)

この金持ちは死にました。ところが彼は、体から分離して別の場所に存在したのです。彼は、目で周囲を見、ほかの人間を識別し、熱さをしのぐのは水であるという科学的知識も持っていたのです。彼は熱さを体験する何らかの体があって苦しみと叫びを体験したのです。彼は回想し、地上に生き残っている五人の兄弟がこの地獄に来ることを恐れたのです。

これらの事実から、死とは、消滅ではなく、肉体からあなた自身(霊魂)が離れることを意味します。ちょうど車を肉体とすると、あなた自身はその車の運転手です。運転手が車から出ると車は動きません。私たちは死んで終わりではないのです。聖書は警告しています。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている 」(聖書 ヘブル人への手紙 9章27節)

人間には死ぬことが確実に定まっているように、「死後にさばきを受けること」も定まっているのです。私たちは死後に永遠の地獄に落ちるのです。これは大変な結果です。やがて経験するこの恐ろしい結果から救われなければなりません。なぜ人は地獄に落ちるのでしょうか。

思い違いをしてはいけません

それは、私たちが罪人であるからです。罪というと、法律に違反することと思われがちですが、そうではありません。罪とは衣・食・住のすべてを与えてくださる神様を拒み、神様に感謝と礼拝をしないことです。そして、ただ金儲けや目先の欲望を満たすためにしか生きられないことなのです。
 聖書は、人間の姿をはっきり診断しています。

「臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」(聖書 ヨハネの黙示録 21章8節)

あなたは真面目で、立派な人かもしれません。他の人に比べればずっと正しい生活をし、欠点などほとんどないと思われるような方かもしれません。しかし、神様の御前で「私は何一つ悪いことはしていない。100%正しい人間だ」といえるのでしょうか。

だれ一人として神様の御前でそのように言える方はいないと思います。私たちは、永遠のさばきである地獄へ向かっている罪人なのです。のみならず、生きる目的を見失い、死後の不安を隠しながら日々を過ごしている者なのです。この恐ろしい結果から救われなければならないのです。私たちがどんなに必死で努力してみても、自分の罪は消えません。

どんなに難行苦行をしても、良い行いを積み上げても、それは罪滅ぼしになりません。神様は私たちにそのような行いを何一つとして求めてはおられないのです。神様は私たちが弱く不完全で、どんな努力も、罪も無くすことができないことをよくご存じだからです。そこで、私たちには救い主が必要なのです。

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