何かが欠けている
神様を抜きにした人生

私たちは、外面的には幸せそうに見えても、実は、虚しくさびしいのが正直なところです。そのさびしさをまぎらわそうとして、私たちはレジャーに、スポーツに、そして、仕事に生きがいを求めて一生懸命です。時には、自分の心に偽って「自分はこれで良いんだ」と、言い聞かせて納得しようともします。しかし、それでも、自分の心は満たされないのです。

聖書はその原因を次のように教えています。

神様を抜きにした人生


「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。」(聖書 伝道者の書 2章25節)

私たちが神様を無視して生きることは、返って虚しい人生を味わうことになるのです。しかも、私たちの人生の道案内人でもあられる神様を無視しているのですから、私たちは何のために生き、どこに向かって生きているのかが分かりません。神様を抜きにした生き方こそが、私たちを不安に陥れる原因なのです。

私たちは、生きて行く上で不可欠な衣・食・住は、神様から与えられています。ですから、神様に感謝して生きることは当たり前のことなのです。読者の方々が、もし、その当たり前から踏み外している人生なら「虚しさ」を経験されていることでしょう。

ある人は言います。「俺は神なしでも生きられる」確かにそうでしょう。しかし、神様を抜きにした人生には、自分は何のため生まれ、何のために生き、何のために学び、何のために仕事をするのか、そして、自分の死後はどうなるのか? それらの人間の根本的問題を全く知ることができません。
人間は動物とは違い理性があります。ですから、私たちは生まれてきた意味、死後の行き先などを知る必要があります。もし、その答えを得なければ決して人生の満足と本当の幸せを知ることはないでしょう。

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