一寸先は光
一寸先は闇

「一寸先は闇」ということわざがあります。その意味は、一寸の長さの単位は約3センチですが、私たちは、そんな先のことすら真っ暗で何も見えない、今、この一瞬あとに何が起こるのかさえ全く予測できないという意味です。

人間は、明日はおろか、一時間後に何が起こるのかを正確に見通す力すらありません。そこに、常に不安と恐れが付きまとっているのです。

しかし、イエス・キリストは言われました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(聖書 ヨハネの福音書 8章12節)

なんと、励ましと安らぎに満ちたみことばではありませんか。イエス・キリストは、不安と恐れに付きまとわれた闇ではなく、平安と希望に満ち溢れた光の人生を与えてくださるのです。闇の中に生きる私たちにとって、イエス・キリストこそ必要とされるお方ではないでしょうか。

私たちの道を照らされるお方

「わたしについて来なさい」ということは、キリストが私たちの先頭に立って導かれることを約束しておられます。私たちにとって「一寸先」は不安でしょう。明日、何が起こるのか本当に分からないのです。しかも、私たちの人生には数々の問題もあります。もちろん喜びや楽しみなどもありますが、それらと共に困難、試練、苦しみ、失望などもあります。そんな人生において、私たちの歩むべき道を照らし希望へと導いてくださるのが、イエス・キリストなのです。このお方を信じて歩む人生は、最も安全であり、そして平安と希望に満たされた人生なのです。なぜなら、このお方は天から来られた神の御子であられるからです。

イエス・キリストが神の御子であられる証拠の一つに、このお方は十字架で死なれた後、三日目に墓の中から復活したという歴史的事実があります。クリスチャンは、イエス・キリストの復活をやみくもに信じているわけではありません。充分過ぎるほどの状況証拠と山積みにされた歴史の記録文書の資料にも、その根拠を置いているのです。聖書は次のように証言しています。「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方」(聖書 ローマ人への手紙 1章4節)と。

私たちの将来と死後の行き先までも見通されるこのお方にこそ、私たちの人生を委ねることができるのではないでしょうか。このお方のガイドで、私たちは混沌とした時代にあっても、道に迷うこともなく、祝福のうちに生き抜くことができ、この世を去るときに確実に天国へ導かれるのです。

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