浜 口 千 佳 子 (小児科医師)
浜口千佳子

私が育ったのはよくある日本人家庭で、神社の初詣も寺の墓参りもありましたが、それが本物とは思っていませんでした。しかし、本当の神様については考えたこともなく、人間はサルから進化してきた事を疑ったこともありませんでした。

大学生になり、私の前に神を信じているという同級生たちが現れました。将来は医者になろうというのに、神などという非科学的なものを信じているなんて、私には信じられませんでした。その誤った考えを正してやろうと思い、彼らのひとりに尋ねた時、「神様がおられるという考え方」でなく、「神様がおられるという事実」を信じていることに「え!?」と思いました。もしそうならば、その人にとっての神様は、私にとっても神様なのだろうか...?という思いが、一瞬よぎりました。

そのうち、教会に誘われました。教会は何か悩みのある人が行くと思っていたので、行く必要がないと思いましたが、会ったこともない教会の人たちが楽しみに待っているよと聞いて、行くことにしました。教会の人たちは、別に間違ったことは言っていませんでした。それどころか、その話は筋道が通っており、私のそれまでの神はいないという考えのほうが、根拠がないことがわかってきました。

目には見えないけれど、大きな力みたいなものが存在し、この世界を、また私を支配していることが、確かにわかりました。そしてその神様の前に、自分は不完全で正しくないのは明らかでした。しかも、本当におられる神様を、今までいないと言ってきた。その間違いを犯してきた相手が、神様なのだから、これはただで済むはずがない...。それが地獄なのか?でも、そこから救ってくださるのが、イエス・キリストという方らしい、とわかってきました。

しかし、わかってからが問題でした。私はプライドの高い人間で、それまでの自分の考えを簡単に捨て去ることはできませんでした。たとえ相手が神様でも、全面降伏するのはいやでした。すぐに信じることはできなかったのです。でも思いました。神様がおられるというのは事実で、その事実を私は知ってしまった。真実に背を向けて、自分の考えにしがみついてこの先の人生を送り続けることは、とてもできませんでした。そして「信じます」と言った時にはほっとしました。

聖書のルカの福音書23章の、イエス様がふたりの犯罪人とともに十字架にかけられる箇所から、イエス様が自分のために死んでくださったことが、はっきりとわかり、イエス様を私の救い主として、信じ受け入れました。今まで私は神様をののしる側の罪人でしたが、今は同じ罪人でもイエス様を信じて天国に行く者となったことに、心から感謝しています。