吉 尾 圭 司 (会社員・理学博士)
吉尾圭司

イエス様を信じる以前、僕は、「人間はいったい何のために生きているのか」と考えてみたことはありましたが、考えれば考えるほど、ますますわからなくなり、「そんなものは人間にわかるようなものじゃないんだ」と思うようになりました。

だから、勉強はしていてもそれが本当に何の目的があるのかわかりませんでした。ただ、大学にいって何かを深く研究していれば心も満たされるし、それでえらくなれば、満足もできると思い、大学に入りました。

大学1年のある日、学校の食堂で若い外国人に声をかけられました。僕は英会話に興味があったので、彼と友達になりました。実は彼はアメリカから伝道に来たクリスチャンで、一生懸命僕に福音を語ってくれました。

しかし、なかなか信じることができませんでした。彼が札幌を出るとき、ひとつの教会を紹介してくれたので、その後で行ってみました。そしてそこで改めて福音を聞き、神様が本当に存在すること、人間には死後に裁きがあることなどをはっきりと聞きました。その話が事実で、本当に永遠の地獄があるならば、そこには行きたくないし、キリストを信じるだけで、罪の裁きから救われるなら信じてみたいと思い続けて、その後も教会に行ってみました。

しかし、神様の存在や、聖書の中の奇跡が事実であることなどが、どうしても信じられませんでした。それが本当のことだと百パーセント納得できたらイエス様を信じようと思い、いろいろな論証を聞いたりしましたが、結局信じられず一年くらいが過ぎました。

僕は大学2年になり、勉強の目的がますますわからなくなり、それよりも世の中のたくさんの楽しいことで心を満たそうとし始めました。そうなると教会に行くのは面倒くさくなり、もう行くのをやめようかと思っていたのですが、そのとき教会のクリスチャンから「確信が与えられるから、聖書の学びをしよう」と勧められました。まだ救われたいという思いは残っていて、もしかしたら信じられるかもしれないと思い、学びを聞くことにしました。

一年のブランクはありましたが、その学びの内容はすでに聞いたことのあるものでした。しかし、そこで改めて考えてみました。確かに、神様の存在と聖書の奇跡を百パーセント納得することはできなかったけれど、百パーセント否定もできない。

本当かどうか完全にわかるまで調べているうちに、死んで本当に地獄に行ってしまうんじゃないだろうか。信じるだけでいいというんだから信じてみようかなと思い、イエス様を信じました。それは、こんなんでいいのかな、とおもうくらい簡単なことでした。

ところがこのことによって、心を開いて聖書を学んでいくうちに、死後の不安もなくなり、神様が確かにご存在することも、人間の生きる目的の答えも確実に知ることができました。今、何も知らなかったむなしい人生から解放され、本当に神様に感謝しています。