もう一つの終活

愚か者

もう一つの終活

そんな彼への神様の第一声は、「愚か者」でした。

なぜ、愚か者なのでしょうか?それは、彼が「自分のために蓄えても、神に対して富まない者」だったからです。聖書の別の箇所には「神に会う備えをせよ」とあります。

唯一まことの創造主であられる神様は、人に命を与え、また取られます。人は死んだあと、肉体はこの地上に残りますが、たましい(あなた自身)は神様の御前に行く時がくるのです。そして、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル人への手紙9章27節)と聖書にあるように、死後、永遠の地獄で罪の罰を受けなければならないのです

「神に対して富まない」とは、神様の御前で良しと認められるものがないということです。すべての人は、神様の御前に罪を犯したために、良しと認められないのです。「義人はいない」「すべての人は罪を犯し」(ローマ人への手紙)と聖書が述べているように、たとえ、あなたが品行方正に生きても、あるいは他人を助けるために生きても、あなたには罪があるのです。それゆえに、聖い神様には受け入れられないのです。

もう一つの終活=神に会う備え

もう一つの終活

話を戻しましょう。つまり、“もう一つの終活”とは、聖書の言う「神に会う備え」のことなのです。

世間で行われている終活は、すべてこの地上に関係するものです。自分の人生を振り返る事、遺される家族の事、延命治療の事、葬儀の事、墓の事、財産の事...。それらは、天におられる神様に会う時には、まったく無意味なものなのです。あなたはそのような終活に満足し、死を迎えようとしておられるのでしょうか?あの“終活とは無縁の男”と同じ「神の前に富まない愚か者」としてこの世を去る、それで本当に良いのでしょうか?

しかし...

「神に会う備えをせよ」(聖書 アモス書 4章 12節)と言われる神様は、あなたとすべての人のために、その備えも既に用意してくださったのです。それがイエス・キリスト様の十字架の犠牲による罪の赦しです。

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