聖書はその原因をはっきりと教えています。
「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。」(聖書 伝道者の書 2章25節)
私たちの命は偶然ではなく、また、自分の力で造り出したものでもないのです。神様が私たちを造られ、生かして下さっておられるからこそ、今日の私が存在するのです。人間は神様によって生かされているのです。
「あなた(神様)こそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。・・・私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ・・・」(詩篇139篇13,15,16節)
このいのちの原因は神様なのです。このいのちの親は神様なのです。原因者であり、いのちの親でもある方、神様を無視して生きること自体が間違った生き方なのです。そこに「むなしさ」があるのです。神様から離れた人生は、満足を与えてくれません。
さらに私たちが、生きて行く上で絶対に不可欠な衣・食・住は神様から与えられているのです。たとえ全世界の富と権力があっても、水と食物がなければ生きて行くことができません。いのちに一番必要な水と食物は、神様の働きで与えられているものなのです。ですから、人間は本来『神から離れて』は、生きられない者なのです。
だから神様を信頼し、神様に感謝して生きることは当たり前のことなのです。その当たり前から道を踏み外すことを罪と言うのです。それは人間の本来の道ではないのです。あなたが、もし、その道から踏み外しているなら「むなしさ」を経験するでしょう。
ある人は言います。「俺のいのち、俺の時間、俺が築いてきた道」
確かにそうです。しかし、いのちは自分で造ったものではないのです。私たちは、親も性別もこの時代をも選択できずに生まれた者です。しかも、死の期日も決められないのです。なぜなら、神様がすべて決めておられるからです。そんな私たちなのにどうして「俺が造ったいのち」といえるでしょうか。私たちは、ただ与えられた命と時間を運用して、今日の私として生きているのです。
また、ある人は言います。「俺は神なしでも生きられる」
確かにそうです。神様はどんなに悪い人間であっても神のみこころの時まで生活を許して下さいます。ですから人生はあります。しかし神様を抜きにして、人はどんな目的をもって生まれてきたのか?何のために生き、何のために学び、何のために仕事をするのか?それらの根本的問題を知ることが出来ません。
人間は動物とは違い理性があります。私たちが生まれてきた意味、死後の行き先などを知らない限り決して満足を持てないのです。それらの要求が満たされない限りむなしいのです。