藤 田 弘 美(主婦)
藤田弘美

初めて福音(イエス・キリスト様の十字架の死と復活)を聞いたのは高校3年生でした。留学していた友達がふたりのクリスチャンと一緒に帰国したのをきっかけに教会の青年集会に何度か行きました。私自身は教会に遊びに行くという感覚でしたが、友達は熱心にイエス・キリスト様のことや聖書の預言について教えてくれました。

この世界を造られたまことの神様のこと、私たち人間はその神様にたくさんの罪を犯している罪人であり、その罪の罰を死んだあとに必ず受けること。でも、そんな罪人の私を愛してくださっていて、私の罪を神様の御子であるイエス・キリスト様がすべて負って十字架で死んでくださったこと、そしてイエス・キリスト様を『私の救い主』と信じるだけで罪が赦されて天国に行けることを教えてくれました。

でも、イエス・キリスト様が私の身代わりに死んだなんて、とても信じられませんでした。今現在、生きている私の罪をどうやって二千年も前に死んだ方が負えるのでしょう。それにイエス・キリスト様を信じないで死んだ人がすべて地獄に行くなんて、とても信じられませんでしたし、信じたくもありませんでした。

なぜなら、死んだ祖父母が地獄に行っていることを受け入れることになるからです。おばあちゃん子だった私には、受け入れがたいことでした。しかし、聖書には以前から興味があったので読みはじめました。

そうした中で、家で飼っている犬が病気になりました。犬が死んでしまうと思った時、友達が「イエス様は神様だから、不可能なことは何もないし、祈りに答えてくださる方なんだよ。」といっていたのを思い出しました。頼れるのはイエス様しかいないと思い、必死で祈りました。元気になった犬を見て「友達が言っていたのは本当かもしれない。イエス様を信じてみよう。」と思いはじめました。

しかし、進学で札幌に来て、何もかもが新鮮で楽しくて、イエス様をもっと知りたいという気持ちがどんどん薄れていきました。聖書も気が向いたときだけ、教会には全く行かなくなりました。「自分は罪人だけれど、救われる方法を知っているから、今を楽しもう。」と自分勝手な理由をつけて、イエス様を無視した生活をしていました。後ろめたい気持ちもありましたが、一度始めた生活をやめることができず、そんな状態が一年ほど続きました。

そんな時、久しぶりに開いた聖書、ルカの福音書16章19~31節の地獄に行った金持ちの実話から、イエス様を信じないで死んだ人の行き先が地獄であることがはっきりと分かりました。祖父母が地獄へ行っているのはつらいけれど事実で、大好きだった祖母が「来ちゃだめ」と言っていることも分かり、イエス様を信じました。

その後、教会の青年集会のチラシをもらい、友達と一緒に日曜礼拝に行きました。それから聖書を学んでいくうちに、自分がどれほど神様を悲しませていたか、高慢になっていたかが分かりました。見捨てられて当然の私を神様は愛してくださっていることも知りました。

自分にはどうすることもできなかった罪をイエス様がご自分のいのちと引き換えにして赦してくださり、救いの中へと入れてくださったことに心から感謝しています。信じた今も罪人であることに変わりはありませんが、そんな私を神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(聖書 イザヤ書 43章4節)とおっしゃってくださっており、いつも共にいて導いてくださるイエス様に感謝しています。