岩 井 伸 矢(会社員)
岩井伸矢

始めて福音を聞いたのは私が中学1年生のときでした。

「イエスキリストって知ってる?時間があるなら教会にきて話を聞いてみぃーひん?」と、友人と遊んでいる時に突然声をかけられたのです。それは京都から開拓伝道で来ていたクリスチャンでした。陽気な関西弁に魅せられ警戒心も消え、軽いノリで話を聞きにいくことにしました。着いた先はアパートの一室で、私がイメージした教会とはかけ離れていました。「やばいとこに来ちゃったかな」と思いましたが、明るい賛美歌が始まりすぐに緊張が和らいだ記憶があります。

牧師の話は人間の死後についてでした。ちょうど思春期でもあり、将来のことや死について考え始めていた私にとって、それは大変興味深い話でした。死が終わりではないことや、イエス・キリストが人類の罪を背負い十字架で死んだこと、この世界は神によって創られたことなどが語られました。その時はピンときませんでしたが、それが人生で初めて聖書にふれた日となりました。そして、この日をきっかけに教会へ通うようになります。聖書を学ぶにつれ、真実が書かれていることがわかり始めました。

一方で、自分が罪人である意識が薄く、イエス・キリストの十字架の犠牲を知識として受入れている状態でもありました。そんな中、ある日のメッセージの中で、「神様からみて一番の罪は神を無視して生きていることだ」と語られました。神の目から見たとき自分が大きな罪を犯していることに気づき、イエス様を信じる決心をしました。

その後 中学から高校へと進学し、次第に部活動や友人との付き合いに忙しくなり、教会から離れていきます。『真理は知っているから、いつか時が来たらまた教会へいけばいい』 と愚かな考えをもち始め、イエス様から離れた生活となっていきました。

そして社会人となり年を重ねていくうちに、お金があれば幸せな人生が送れると信じ妙にお金に執着するようになります。その思いが強くなるほど自己中心的な考えが強まり、幸せな生活どころかつまずきの連続で、何が悪いのかもわからず大変悩みました。

そんな時 住んでいるアパートの古紙回収日に 三浦綾子の本が山積みとなって捨てられているのが目にとまります。その捨てられた本を部屋に持ち帰り読み始めました。三浦綾子はクリスチャン信仰に根ざした作家ですが、そこには三浦綾子と夫である三浦光世との信仰生活や、自分を犠牲にして他人を救うクリスチャンを小説化した作品などがあり、大変心を打たれました。書かれている無償の愛は、全てイエス様への信仰から来ていることを知りました。

何が悪いのかも分からず悩み続けていた原因は、神様から離れ自己中心的な生き方であったことに気づかされます。イエス様の愛に再び立ち返りたい、神様中心の生き方をしたい、と祈り求める中で、三十数年ぶりに教会へいく決心をしました。

当日の聖書メッセージは、放蕩息子の話にもふれ 「それでもあなたを愛している」神様からの言葉が迫ってくるようでした。今までどれほど神様を悲しませたことか どれほど忍耐されたか。メッセージ中は罪責感でいっぱいになりました。

しかし礼拝後、すぐに「しんちゃんやなー? 覚えてるー?」と、しばらくぶりの私を喜びで歓迎してくださった時、何ともいえない喜びと平安な気持ちにつつまれました。神様がこんな私をも待っていてくださり、喜びで迎えてくださった、祈りは応えられたと感じた瞬間でもありました。この気持ちは毎週毎日と続き今にいたります。

傲慢で愚かな考えをもち、イエス様から離れていた私を見捨てることなく、再び御元へ導いて下さった神様に感謝します。そして、教会の皆様がイエス様に立ち返るよう、私のことを祈りに覚えていて下さった、イエス様への信仰から来る愛に感謝します。