私は親がイエス様を信じて教会に行っている、クリスチャンの家庭で生まれ育ちました。ですから、幼い頃から聖書の話を聞いておりました。また幼馴染もたくさんいましたので教会に行くのは苦ではありませんでした。
しかし聖書の御言葉やクリスチャンがよく言う「イエス様を信じる」という意味がよくわかりませんでした。存在を「信じる」とは違う、それも必要だがそれだけではない、と疑問に持ちつつも「いつか分かるだろう」とフワフワして生きていました。
小学生の時に、友達と遊んでいた時のことです。隣のアパートの駐車場にカラーコーンが置いてあったのですが、出来心で、それを破壊して遊んでいました。気づいた管理人から親に連絡が行き、親から「なにしてんの!」と、友達が思わず泣くほど、怒鳴られました。しかしその後に、親が管理人から怒られたと聞きました。
私はその意味が分かりませんでした。「管理人から怒られたのは、なぜ自分ではなく親なのだろう?」と思いました。その疑問は、私の心に引き続きあったのを覚えています。
そのような時、礼拝で同じ内容の話を聞きました。そしてそれを聞いた後になって、ある時気づきました。「イエス様が私の罪の身代わりとなられた」事が、どれほど凄いことなのかを。あのカラーコーン破壊事件で親が私の代わりに怒られたように、罪を持った私が神様から怒りを受けるはずだったのに、イエス様が身代わりに怒りを受けてくださったということが。
代わりに怒られるという事は、簡単な事ではないと思います。しかも罪による怒りは、地獄へ行くことです。それを代ってくださった、それに気づいた時には、イエス様に対する感謝の思いでいっぱいでした。
この時に、本当の意味で、「イエス様は私をこんなにも愛してくださり、地獄から救ってくださった救い主なのだ」と信じました。
そして、死というものはいつ来るか分かりません。先日テレビで私と同名の幼い子が親子揃って火事で亡くなってしまったという悲しいニュースを見た時に、本当にそう思いました。
聖書は、神様が仰っている嘘偽りのない御言葉だと確信しています。幼い頃はイエス様の救いについて漠然としてた私ですが、今はこうしてイエス様の愛と救われた喜びに満たされています。