出生と回心
クラーク博士は、1826年、北米マサチューセッツ州で生まれました。そして、20歳の時、アマスト・カレッジでの在学中にイエス・キリストを救い主として信じたと言われています。その後、植物生理学者として数々の業績を成し遂げ、1867年、マサチューセッツ農科大学の初代学長として就任しました。
日本から札幌農学校の教師として招聘の依頼が来たのは、クラーク博士がマサチューセッツ農科大学の学長を現職で勤めていた時でした。学長としての職務を中断して日本へ赴くことは、とても難しい選択でしたが、博士は日本へ行くことを強く望んでいました。そこには一つの決意がありました。それは、日本の学生たちに、イエス・キリストの福音を伝えることでした。
日本への出発
札幌農学校への赴任が正式に決まり、1876年、クラーク博士は日本へ出発しました。到着後、横浜で学生に教えるための聖書を30冊購入しました。第1期生の選抜試験が終わり、博士はその聖書を持って、学生たちとともに船で札幌へと向かいました。その船には、北海道開拓長官であった、黒田清隆も同船していました。クラーク博士は、その船上、黒田長官と教育について議論しました。博士は学生たちに聖書を教えることを主張しました。当時はキリスト教の禁制が解かれてまだ間もない時代であり、黒田長官はその方針に激しく反対しました。しかし、博士の意思は決して変わりませんでした。その後、クラーク博士の熱意を見て、長官はついに聖書を教えることを黙認したのでした。
札幌での教育
クラーク博士は農業とともに、学生たちに聖書を教えました。時には、授業の後訪ねて来た学生を温かく迎え、そこで交わりを通してイエス・キリストの救いを伝えたのです。博士の信仰教育は8ヶ月という短い期間でしたが、若く多感な学生たちにすばらしい影響を与え、信仰の弟子を育てました。 博士が日本に残したものの中に、「イエスを信じる者の誓約」という文書があります。そこには、「十字架の死をもって我らを贖いたもう救い主に、愛と感謝を表す」と、学生たちが心に留めるべき信仰の告白が記されています。そして別れの時、「少年よ、大志を抱け!」という言葉が語られました。その「大志」とは、イエス・キリストを土台とした希望であることに他ありません。農業の技術によって物資的に豊かになることだけが本当の幸せではないこと、イエス・キリストを信じて永遠の命を得ることが何よりも大切であること、それこそが、クラーク博士が伝えたかったことだったのです。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。」(聖書 マタイの福音書 16章26節)
参考文献:逢坂信吾著「クラーク先生詳伝」、大島正健著「クラーク先生とその弟子達」