三 角 一 彦 (会社員)
三角一彦

私がイエス様を信じたのは、専門学校を卒業する、1995年2月のことでした。初めて教会へ行ったのは、1994年の10月です。

初めて行く教会、いったい何を話されるのか、変な話に洗脳されないようにしようと、かなり警戒心を持って地下鉄に乗りました。教会へついて中へ入ると、それまでの教会イメージとは程遠く、「これが教会?」と思ってしまったほどで、掲げられた御言葉と、十字架のマークがついた、講壇が無ければ、その辺の集会所と変わらなかったのです。

そこで初めて聞いた、神舘牧師のお話には大いに同調できましたし、うなづけました。しかし、こと神様の話になると、胡散臭さを覚え不快感まで感じ、ついには頭がガンガン痛くなってきたほどでした。

私は神様というものは、自分の心の問題であり、宗教に頼らなくては生きて行けない、弱い人間が信じるものだと考えていたのでした。そして、キリストも釈迦も天照大神も西洋と東洋の違いだけで、目指しているものは同じであり、人がどれを選択するのかはその人の自由であると考えていたのです。

ですから礼拝後の交わりの中で、「道は一つしかない」、「他は偶像崇拝であり、何の意味も無く、それどころか大きな罪を犯している」といわれてもピンとこなかったし、いくらなんでも他を非難することまでないのではと、腹立たしさを覚えたほどでした。

そのような状態で家に帰ったものですから、二度と教会なんかに行くものかと思ったのです。

ところが、教会には行きたくないけれども、さまざまな疑問を神様はどう言っているのか知りたいなと、自分の心に芽生えてきたのです。

ある日のことです。学校が休みで部屋にいると、教会の方が訪れ、「今度特別伝道集会があるので、また教会へ来てみませんか」と誘われたのです。心の中で疑問を解決したいと考えていた私は、相手が拍子抜けするぐらいの二つ返事でOKしたのです。クリスチャンになって分かりましたが、神様が働いておられたのです。

そこで改めて牧師先生の話を聞いて、死は無ではなく永遠の始まりであり、私は地獄へ行かなくてはならない罪人であると理解できたのです。「地獄へなんか行きたくない」と強く思い、最後の祈りの中で、牧師先生が「今日イエス様を信じて地獄より救われたいと思った方、少しでいいです、手を挙げてください」と聞いたとき、私は手を挙げてイエス様を信じると告白したのです。

その時は何か肩の荷が降ろされたような気持ちになったものの、いま一つ救われたんだということがよくわかりませんでした。それどころか自分は何一つ変わってないと実感したのです。変わったのは信仰が持てたことであり、それ以外はパチンコもする酒もガンガン飲む生活が続いたのです。

しかし信仰が成長し、イエス様のことがだん分かってくると、「酒で紛らわして何になるの」と思うようになり、「パチンコなんてするな」と思わなくても、自然と止められるようになったのです。絶対に止められないと思っていたものから開放されたのです。ここにも神様が働いておられたと確信できました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(聖書 ヨハネの福音書 3章16節)

どんな行いをもってしても地獄より救われない人間が、イエス様を神様、救い主と信じる信仰だけで天国に入るものとされることをこの御言葉から知ったとき、なんてイエス様はすごいお方なのかと思いました。イエス様は、全人類、その中の一人である、私の罪のために身代わりとなって十字架についてくれたんだ、とはっきり信じることができ、感謝しています。