内 藤 百 花(学生)
内藤百花

私が初めて聖書を読み、イエス・キリストという方を知ったのは、中学1年生の時です。私が通っていたのは、キリスト教主義の中学校でした。毎日礼拝の時間があり、授業には「聖書」という科目もあったため、イエス・キリストという救い主がいる、ということはなんとなく頭で理解していました。しかし私は、宗教の一つとしてしか考えていなかったので、特にイエス・キリストについて深く考えようとはせず、たまに「良い教えが書いてあるな」と思いながら、聖書を読んでいました。

ところで、中学生の頃の私はというと、とにかく落ち込みやすい性格で、自分のことが大嫌いでした。他人の目を気にしてばかりで、誰からも好かれる人間でありたいと願いながら、理想の自分へ変わることもできず、毎晩一人で落ち込んでは泣いていました。中学2年生の頃からは日記をつけるようになったのですが、そこには楽しかったこと以上に、辛いことや悲しいこと、苦しいことを書き殴っていました。「どうしてこうなったんだろう」「自分が変わらなきゃ」「疲れた」「寂しい」「前の方が良かった」「私が悪いの?」「もう嫌だ」...。人には到底見せられないような言葉も、たくさん書きました。

そんな私が教会へ通うようになったのは、中学3年生の時です。夏休みの宿題の一つに、「教会へ行く」という課題があったので、私はクリスチャンの友人がいる教会へ行きました。1回でも礼拝に出れば課題はOKだったのですが、私はそれ以降もなんとなく、友人に会えるからという理由で教会へ通うようになりました。

教会へ通うようになってから、私には一つ分かったことがありました。それは、イエス・キリストという方は私と無関係ではない、ということです。「イエス様はあなたを愛していて、あなたのために命を捨てられたんだよ」と、いつも礼拝で聞いていました。2000年前のことなのに、どうして私と関係あるのだろう、と初めは疑問に思っていました。しかし、聖書のみことばを読み、メッセージを聞く中で、徐々にその愛が分かるようになりました。

イエス・キリストは、神の御子でありながら、この地上に来られて、罪人である私の身代わりに十字架で苦しまれ、死なれた。他の誰でもなく、こんなにも汚くて、自分ですら好きになれない私のことを、イエス・キリストは命を捨てるほどに愛してくださった。この事が、作り話などではなく本当のことなのだと分かった時、私はその愛の大きさに泣いていました。私は、これ以上の愛を見たことも聞いたこともありませんでした。そして、教会に通い始めて1年後、私はイエス様を信じると告白し、バプテスマを受けました。

イエス様を信じてから、私は大きく変えられました。日々の辛い気持ちばかりを書いていた日記も、いつの間にか書かなくなりました。およそ半年ぶりに日記を書いた時、私は次のように始めています。「昔の日記荒れてる……(笑)今では何も気にかけてないよ。だって神様がいる。イエス様の愛がある。」

私は、イエス様を信じて人生を変えられました。世の中には、自分の人生を変える方法がたくさん伝えられています。「あなたを変える」と謳った本もたくさんあります。しかし、この世界で私を変えることができたのは、イエス様だけです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(聖書 ヨハネの福音書 15章13節)

この完璧な愛を示されたイエス様に信頼して、すべてを委ねて、これからも生きていきたいです。

「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(聖書 ローマ人への手紙 10章11節