最も大切なこと8 本当の悔い改め

ルカの福音書15章11節〜24節を読んでみましょう。ここをクリック

このお話はイエス・キリストの語られた中でも最も有名な「放蕩息子」のたとえ話です。このたとえから、大切な二つの点を学ぶことができます。 第一の点は「本当の悔い改め」です。第二の点は「父の愛」です。

悔い改めとは「考え直す」とか「方向の転換」という意味があります。それは、今までの自分の生き方を考え直し、そして今後、自分の生き方を180度に向きを換えることです。

そのためには、まず、17節にある「我に返」るというところからはじまらなければなりません。「我に返った」とは、ギリシャ語の原語から直訳すると「彼自身の中へ」(ει εαυτονーエイス へアウトオン)です。これは、現実の自分自身の生き方を見つめ直し、自分の罪を自覚するという意味です

放蕩息子は、放蕩に身を持ちくずした自分自身の現実の姿をかえりみ、そして、自分自身の生き方がどれほど罪深く愚かであったかを自覚したのです。そして、その罪である生き方を止め、神の恵に拠り頼んで神に方向を換えたのでした。これが本当の悔い改めです。

この悔い改めは救いではありません。しかし、救いに至るために必要な要素です。なぜなら、人は罪の自覚とその結果である地獄のさばきを認めることなしに、神に救いを求めることをしないからです。

放蕩息子のこの体験は、まさにこの点を的確に表現し、私たちに本当の悔い改め教え、そして救いへと導いてくれるものなのです。 では、放蕩息子はどんな点を悔い改めたのでしょうか。

T、父から孤立した生き方(13節)

放蕩息子の「遠い国へ」の旅立ちは、父からの独立ではなく、孤立でした。それは親との関係を切り離して、遠い国で自由気ままに生活したいという欲望でした。これは親子関係を無視した自分本位の誤った生き方です。私たちもまたそうではないでしょうか。神を信じると好きなことができないからと思い、神と孤立し、そして神から遠く離れた生活をしているのです。神から孤立した人生にどんな幸せがあるというのでしょうか。「立ち上がって、自分の父のもとに行った」とあるように、真の神のところへ帰ろうではありませんか。

U、金銭主義の生き方(12〜13節)

彼は、お金の無い人生は無力であると考えました。そして、お金こそが人を幸せにすると思い込んだのです。そこからお金と快楽に生きる人生へと変ってしまいました。これも今日の人々と同じではないでしょうか。

よくお金がないと生きていけないという声を耳にします。そこで、人々は金儲けのために忙しく働き、神に与えられた人生をお金のために無駄に浪費してしまうのです。また、人は物欲を満たすために借金をし、その返済のために朝早くから夜遅くまで働きずくめです。そして大切な体を壊してしまうのです。そんな生き方の中に、自分と家族のきずなを失う悲劇がおこってしまうばかりか、後に、非常な虚しさを刈りとってしまうのです。家族を犠牲にするほどお金と物に価値があるのでしょうか。お金も物も生活の手段であるはずです。それがいつしか目的にとって変ってしまうのです。これこそ本末転倒な生き方です。

放蕩息子は、社会の厳しさと冷たさを経験した後に、今の自分の生き方が本末転倒であることに気づきました。そして、神に対してこのような生き方こそが罪であることを認めて方向転換をしたのです。

V、快楽主義の生き方(13節)

彼は「湯水のように財産を使」って快楽にふけりました。そして、とうとう無一文になってしまったのです。彼はなぜ、計画的に使うことをしなかったのでしょうか。それは、父から孤立した生き方に平安がなかったからです。彼は自分の心の中にポッカリとあいた穴を次から次へと快楽で埋めようと必死でした。しかし満たされませんでした。そしてとうとう財産の破綻宣告をしなければならない世間の笑い者へと落ちてしまったのです。

放蕩息子の満たされない心も、私たちと同じではないでしょうか。ある人は人生について次のように言いました。「楽しく生きなきゃ生きている気がしないよ」。これは言葉の裏を返せば、人生は楽しくないということです。なぜ楽しくないのでしょうか。それは、神を無視して生きるという罪を犯しているからです。私たちは自分の心をだましながら生きるべきでしょうか。

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