幸せですか?
ナイチンゲールの悩み
ナイチンゲールの悩み

イギリスの看護婦でナイチンゲールと言う人がおります。彼女はクリミア戦争の惨状に心を痛め、みずから看護婦38名を従えて死を恐れることなく戦場に赴き、傷ついた病兵の救護に献身的にあたりました。また患者の側にたった野戦病院の改革を行ない、わずか数ヶ月で死亡率を半減させ、クリミアの天使と賞賛されました。

のちに看護婦養成所をつくり、それが現代の看護教育の基礎となり、これらの活動が赤十字運動の誕生に大きな影響を与えたのです。現在では看護師の母とか健康をまもる母と賞賛され、人々の目には立派な聖人として映っています。しかし当の本人は自分自身をどう見ていたのでしょうか。

彼女の日記には次のように書いてありました。

「私にとって最大の問題は、自分の心の中に罪があるという事実です。誰がこの罪から救ってくれるのでしょうか。」

ある人々は自分の良心に言い聞かせて「誰でもやっている。しかたがない。もっと合理的に考えろ。」などと言い、偽りの安心を持つことに努めています。また、ある人はこの良心の責めから逃れるために、何かに没頭したり、罪を償うことに努力します。

しかしどんな修行も罪をぬぐい去ることはできず、どこへ行っても罪は追ってくるのです。そして良心の責めから何をしても逃れることができないのです。このように罪の問題こそ、私たちを不幸にしていることが明らかです。それだけではなく、私たちは人生の最期に、聖書が述べている通りに、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受ける」(聖書 ヘブル人への手紙 9章27節)ことを直感的に知っています。

罪人は死んだ後、神様の前に立ち、生まれてから死ぬまでに犯したすべての罪を明らかにされます。そして地獄で自分の刑罰を受け続けるのです。そこは激しい苦しみと悲しみ、叫びと絶望、暗闇と恐怖しかないのです。それで私たちは死を恐れるのです。

若者や体に自信がある人は、死後の話を聞くと笑いますが、それはその人がまだ自分の死に直面していないからです。人間とは勝手な者で、死は他人には当たり前であっても、自分にはいつまでも例外でありたいと思うのです。

しかし人間は死と裁きの事実から逃れることはできません。またどんなにこの世で物的に満たされても、社会的に自慢できる地位を得ても、この罪と死後の問題が解決されない限り本物の幸せは訪れません。罪が赦されるしか解決の方法がないのです。では何をすれば罪は赦されるのでしょうか?

<< 前のページ 1 / 2 / 3 / 4 / 5 次のページ >>