「あなた(神様)こそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。」(聖書 詩篇 139篇13節)
しかも、私たちが生きていく上で必要不可欠な衣・食・住は、神様から与えられているのです。ですから、神様を信頼し、感謝して生きることは、人間として当たり前のことなのです。
ある人は言います。「俺の命、俺の人生、俺が築いてきた道」。確かにそうです。しかし、資本である命は自分のものではありません。私たちは、親も、性別も、時代も選択できずに生まれて来ました。しかも、死の期日さえ知らないのです。なぜなら神様がすべてを決めておられるからです。そんな私たちに、どうして、「俺のもの・...」と言えるのでしょうか。
また、ある人は言います。「俺は神抜きでも生きられる」。しかし、人は何のために生き、何のために学び、何のために仕事をするのか? それらの人生の根本的な問題を造り主を抜きにして知ることができるでしょうか。私たちはまるで、どこに向かって走っているのか分からない電車に乗っているようなものです。
神様を無視しても私たちが生きられるのは、神様がそんな反抗者をも愛し、やがて神に立ち返るのを待っておられるからです。人間は動物とは違い理性があります。ですから、私たちが生まれてきた意味、死後の行き先などを明確にしない限り決して満足を得ることが出来ないのです。神様こそ、私たちの人生の道案内であられるのです。
この神様を抜きにした生き方では、どれほど豊かなものを手に入れても、快楽の生活を送っても、心は満たされず、ただ渇くだけです。
死後の行き先を知らない人生
聖書は、私たちが死んだ後、何があるのかを明確に教えています。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(聖書 ヘブル人への手紙 9章27節)
私たちはやがて死にます。死後、神様の御前で、人生のすべてのことについて申し開きをしなければなりません。神様を抜きにした人生、神でもない木や石の偶像を拝んだこと、そして、偽りの言葉や誤った行動の罪、また、心の中にある汚れた思いの数々です。神様は聖書を通して、現在の私たちを「罪人である」と診断しておられます。ですから、罪人は裁かれ、地獄に行くのです。その事実を私たちは直感的に知っています。そこに死に対する恐れがあるのです。
私たちを不安に陥れる原因は、死後、天国に行ける、という確信を持っていないところにあるのです。 どれほど、豊かな人生を送っても、私たちは必ず死ぬのです。しかも死は、予告もなしに突然やってきます。そんな死後に対して、備えていないことが、私たちの心が満たされない理由でもあるのです。