イエス・キリストは言われました
「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(聖書 ヨハネの福音書 4章13、14節)
「水」は結論から言うと、イエス・キリストを指しています。すなわち、彼こそが私たちの心を潤し、永遠の滅びから救う救い主なのです。神様は、罪人である私たちを愛し、滅びからの救いの道を備えられました。それが、神の御子イエス・キリストです。聖書は彼について次のように語っています。
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(聖書 ペテロの手紙第一 2章24節)
キリストは、私たちを恐ろしい地獄の裁きから救うために、私とあなたに代わって、十字架上で死んでくださったのです。それは、私たちの罪の清算であり、罪の裁きの身代わりの死であったのです。そして、彼は三日目に墓の中から甦られました。
そのお方を心から信じる者は、神に罪を赦され、地獄の裁きからも救われ、永遠の命が与えられるのです。そして、私たちは自分が何のために生まれ、学び、仕事をするのかという真実の意味を知り得るのです。のみならず、どんなことがあっても変わることのない喜びと天国への希望が与えられるのです。
罪を赦され、死後の裁きからの問題を解決された時、人生の様々な楽しみは、本当の楽しみに変わってきます。表面的で、一時的な充実感ではありません。永続する充実感です。真実の満足へと変えられるのです。ここに、渇いた心が潤い、この世の何を持ってしても、満たされなかった心が満たされるのです。天下取りの徳川家康が最期に残したことばに、「人の一生は、重荷を背負うて遠き道を往くが如し」とあります。しかし、イエス様を信じる者にとっては、「人の一生は、イエス様に重荷を降ろして、天国の道を楽しく往くが如し」です。
イエス・キリストはあなたを招いておられます。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたし(キリスト)のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書 マタイの福音書 11章28節)