思い違いによる永遠の損失

私は死んだら終わりだ

墓地の庭

多くの人は、人間は死ねばすべてが終わりだと思っておられるのではないでしょうか。

イエス・キリストは人間の死を次のように教えています。 「金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハム...が見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように...私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』」(聖書 ルカの福音書 16章22-24節)

この金持ちは死にましたが、彼は身体から分離して別の場所に存在していました。彼は、自分の目で周囲を見、他の人間を識別し、熱さをしのぐことができるものは水であるという科学的知識もありました。これらのことから、死とは私自身の消滅ではなく、肉体から分離することであることが分かります。ですから、私たちは死後の行き先について考え、そして決断して人生を送ることが肝要ではないでしょうか。

私はそんなに悪くない

私たちは、いつも他人と比較して「自分はまあまあ正しい生き方をしている」と自分に言い聞かせて安心しています。しかし「『すべての人の心を知っておられる』(聖書 使徒の働き 1章24節)神様は、私たちの本質を見抜いて、次のように言われました。  「人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(聖書 マルコの福音書 7章21-23節)

しかも、私たちは衣食住のすべてを与えてくださる神様に感謝と礼拝をささげないで、それらのものがあって当り前であるかのように日々の生活を送っているのではないでしょうか。

ですから、私たちは死後に永遠の滅びに落ちる罪人なのです。人間は死ぬことが確実であるように、さばきを受けることも確実です。これはやがてむかえる大変な事実です。私たちはやがて経験するこの恐ろしい結果から救われなければなりません。

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