だまされた幸せ
豊臣秀吉

「つゆとをち つゆときへにし わがみかな 難波の事も ゆめの又ゆめ」。日本人ならだれでも知っている戦国時代の武将、豊臣秀吉の辞世の句です。彼は貧しい農家に生まれながらも、やがて国の頂点に立った人物です。その彼が死期を迎えたとき、露のようにはかなく消える自分の名声、強大な権力、富のむなしさをうたいました。彼はある意味、人生の幸せを勘違いしてきた、と告白しているのです。

ほんとうの幸せとは何でしょうか。聖書は次のように語っています。

「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めになら...ない人は。」(聖書 詩篇 32篇 1、2節)

ほんとうの幸せとは、神様に罪が赦され、人生の意義を持ち、天国へ行ける者とされることです。


罪は不幸の代名詞

罪とは何でしょうか。それは神様のご存在を忘れ、神様を無視した人生を送っていることです。この世には、間違って「神」と呼ばれるものがたくさんあります。子供が自分の親を選ぶことができないように、神様を選ぶことは出来ません。自分の造り主を神様とすべきなのです。なのに、ある人々は自分が何を信じようが、個人の自由だといいます。これは私たちを造られた神様に対して失礼な行為です。これを偶像の罪といいます。また、まことの神様から離れてしまった私たちは生きる理由を失い、不道徳な者へと堕ちてしまったのです。

聖書は私達を次のように診断しています。

「彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。」(聖書 ローマ人への手紙 1章29-31節)

悲しいかな、これが私たちの現実の姿なのです。私たちの良心は、その罪を取り上げて私たちを責めたててきます。

イギリスにナイチンゲールという看護師がおりました。彼女はクリミア戦争の惨状に心を痛め、自ら看護師38名を従えて戦場に赴きました。そして、傷ついた兵士たちを献身的に救護したのです。彼女は患者の立場に立った野戦病院の改革を行い、わずか数ヶ月で死亡率を半減させ「クリミアの天使」と賞賛されました。後に看護師養成所をつくり、それが現代の教育の基礎となり、赤十字運動の誕生に大きな影響を与えたのです。現在では彼女のことを「看護師の母」とか「健康を守る母」と、人々から立派な聖人と絶賛されています。ところが、その彼女の日記には次のように書かれていたのです。「私にとって最大の問題は、自分の心の中に罪があるという事実です。だれがこの罪の責めから私を救ってくれるでしょうか。」と。

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