南インド洋に浮かぶ島国マダガスカルに 「旅人の木」という大きな木があります。その木はマダガスカル航空の尾翼(びよく)にデザインされ、その国の象徴とされています。日本では観葉植物として馴染みのあるものです。
この「旅人の木」、見た目は、決してきれいな、格好の良い木ではありません。しかし、砂漠地域を旅する人にとっては無くてはならぬものです。なぜなら、熱帯や砂漠地域を旅する人の水が途中で無くなれば、それは死ぬことになります。水がなくなったその時、旅人はまずその木を探します。ようやく見つけたその木の厚い樹皮に、ナイフをグサリと刺します。すると、そこから甘くて美味しい水が、次から次へと溢れ出てくるのです。そして旅人の渇いたのどを潤し、旅人は死の危険から救われるのです。
私たちも、この世という熱帯、砂漠地帯のような過酷な環境の中で、人生を旅しているのではないでしょうか。私たちの心は渇き、生きがいを見いだせずにあえいでいます。そして心の弱さを周りの人に隠して生きています。そんな過酷な環境に悩まされる人生に疲れています。私たちにも、元気と希望を与えてくれる「旅人の木」が必要なのではないでしょうか。
イエス・キリストは言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書 マタイの福音書 11章28節)
人生にはさまざまな重荷があります。 その一つに、「自分は何のために生きているのか」その理由を知らないことではないでしょうか。73歳の白髪になった未亡人の実際にあった話を本で読みました。「私は主人に死なれて、広い屋敷に今ひとりぽっちで住んでいます。三人の育て上げた子どもたちからは、『お母さん、家には来ないでくれ』と言われているのです。長男は医学博士で病院長、次男は大学の先生、三男も教師です。でも三人の嫁とも上手くいかず、私は毎日土鍋でお米を炊いて、ひとりで三度に分けて食べているのです。階段を昇ると息切れがして、途中で何回も休みます。私は今まで何のために生き、これからどう生きて行ったらいいのでしょうか...」
こんなに医学も科学も進歩した時代なのに、人間が生きることに、苦しんでいる、あえいでいるという事実を、私たちは否むことができません。神様に造られた人間にとって、本当の意味で神様の懐に帰るまで、生きる喜びと意味は分らないのです。迷子におもちゃや飴玉は解決しません。迷子は、両親の顔を見るまで、泣き続けるでしょう。神様から離れた人間は、神様の温かい愛の胸を見出すまで、泣き続け、生きる苦しみを叫び続けていくのではないでしょうか。そのような私たちに、キリストは「わたしのところに来なさい」と招いてくださるのです。