旅人の木

キリストのところへ行くとは、彼を心から信じることです。信じたら何があるのでしょうか。

第一に、生きる目的を手にします。

イエス・キリストは言われました。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(聖書 マタイの福音書 4章4節)と。

私たちは「ご飯」という物質だけでは満足しません。自分を造られた神様を信じて生きるという霊的な存在なのです。目的という字は、「目」が見るべき「的」と書きます。人が目を向けるべき的とは何でしょうか。それは、自分を造られた創造主ではないでしょうか。この神様という的から目を背けて離れ去るところに生きがいはありません。そのことを聖書は罪と語っています。

第二に、罪が赦され、天国に迎えられます。

聖書に「キリスト...正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです」(聖書 ペテロの手紙第一 3章18節)とあります。「正しくない者たち」とは私たちのことです。私たちは神様に対して汚れと罪を犯している者です。ですから、神様からすれば「悪い人」なのです。十円盗むも百万円盗むも泥棒は泥棒と同じように、実際に人を殺していなくても、人を殺したいほど憎むことは神様にとっては殺人なのです。悪い人は、罪の罰を受けなければなりません。その罰こそとこしえの刑罰なのです。私たちが地獄へ行かなければならない原因は、私たちの罪です。ですから、この罪が解決しない限り誰一人として地獄から救われることはないのです。

イエス・キリスト

ところが、紀元30年4月、人となられた神の御子イエスは、十字架の上で罪に対する刑罰のすべてを私たちの身代わりとなって受けられました。御子の汚れのない血潮が流されたことで、罪人のために罪の赦しが与えれました。御子の死によって、罪人に対する刑罰は終わったのです。このことの証拠として、墓に葬られたイエスは、死後三日目の朝早く死を打ち破って復活され、ご自分こそが救い主であることを明らかにされました。

ですから、今、イエス・キリストを信じる者はだれでも、罪の赦しが与えられ、死後、天国に迎えらるのです。もちろん、罪の刑罰の場所である地獄へ落ちる心配もなくなるのです。

第三に、人生は希望と感謝に満たされます。

聖書は、「聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。」(聖書 ローマ人への手紙 15章4節)と約束しています。

私たちにとって最も過酷で渇く心、目的なしの人生、罪にさいなまれる日々、そして死後の行き先への疑問と不安がイエス・キリストを信じることによって解消し、代わりにいつまでもあふれ出る希望が与えられるのです。このお方こそ、私たちに必要なのではないでしょうか。

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