求道心を持った浅子は、牧師のもとで聖書を学び、また教会に行くようになります。当初は「説教に罪人、罪人という言葉がくりかえされるたびに嫌な心地がして...」と記していた浅子ですが、一年以上も過ぎた夏、早朝の山で聖書を読みつつ黙想するなかで、「超然として絶対の神に触れるのを覚え、思わず涙があふれ...、宇宙には神がいらっしゃるのだという感は、この時から取り去ることができないものとなりました」とついに神のご存在を受け入れます。
キリストの十字架での死が自分のためであったという確信を持った浅子は、残りの生涯を神のために捧げる決心をします。そして1911年、62歳で受浸します。
晩年の浅子
クリスチャンになる以前、彼女は自分の知恵と力をふるい、社会のために、また女性教育のために惜しまず努力しました。しかし、手にした社会的な成功とはうらはらに、彼女の心は完全に満たされることはありませんでした。晩年の浅子は次のように記しています。
「その後の私は休むにも働くにも、神の御言葉を離れては何もなすまいと決心いたしました。昔は人々や国家のためというだけの動機で物事に当たってきましたが、これからは神の御旨に従うということを基準としていたしたい。神はこの老婆をも捨てられず尊い福音伝道のために、日も足りないほどに用いたもうのです。まことに、これでこそ生まれた甲斐があったと感謝のほかはありません。願わくば、世の人々が暗きを捨てて、光に満ちたこの境地に入り、キリストとともに歩む喜びに一日も早く達せられることを。」
明治を代表する女性実業家であり、豪気・英明な天性から「一代の女傑」とたたえられた浅子は、クリスチャンとなり、その生き方は一変したのです。乳がんの手術の後に感じた「天は何かせよと私に命を貸した」その理由は、イエス・キリストを信じ救われ、本当の生きがいを手にすることであったと、彼女は気がついたに違いありません。彼女は69歳で天に召されるまで、キリストを伝え、感謝の日々を歩んだと伝えられています。
参考文献:超訳 広岡浅子自伝 株式会社KADOKAWA発行