再度アメリカに渡った太一郎は洋菓子作りの学びを再開し、妻子を日本に残しての合計11年間の修業を終えます。35歳になった彼は帰国し、さっそく美味しい洋菓子を作り始めました。
お菓子を売る屋台に聖書の御言葉をかかげて
しかし当時は、洋菓子を店頭に置いてくれる和菓子店はありませんでした。太一郎はガラス張りの屋台を特注し、それに作った洋菓子を並べ、彼自ら売り回りました。その屋台の上には「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(聖書 テモテへの手紙第一 1章15節)の御言葉が掲げられていたのです。
そのような太一郎を人々は「ヤソ(キリスト)のお菓子屋さん」と呼ぶようになりました。以前は郷里で福音を語っても拒絶された太一郎でしたが、この時ついにこの町で、お菓子の甘い香りとともに人々にイエス・キリストの福音を運ぶ菓子職人として受け入れられたのです。
その後、黄色い箱にエンゼルマークのミルクキャラメルが爆発的に売れ、森永製菓は大会社として発展します。太一郎はその成功も「聖書のおかげ」と書き記しています。
福音伝道に力を尽くす
太一郎は社長を退くと、イエス・キリストの福音を伝えるために力を尽くしました。私邸の庭を開放し「森永ガーデン」という夏季教会学校を開き、子供たちに聖書の御言葉を教えました。また私財を投じて「自動車宣伝隊」という伝道隊を結成し、自ら率いて北海道から沖縄までの全国をめぐり、神の愛を説きました。太一郎の語る説教は、いつも「我は罪人のかしらなり」という、ガラス製のお菓子の屋台に掲げていた御言葉からだったといいます。
精力的に伝道の旅を続けるうちに、太一郎は過労がたたって病に伏してしまいます。彼は衰弱が進むなかも一番好きな賛美歌を歌いつつ、73歳で天に召されました。