当時の日本はキリスト教の禁教が解かれたとはいえ、クリスチャンに対する風当たりは決して良いものではありませんでした。しかし仙と初子はそれを超えて信仰へと進み、クリスチャンとなったのです。
仙の宣教の働き
明治8年、仙は農学校を創設します。そこでは農業だけが教えられるのではなく、礼拝が持たれ聖書が教えられました。やがて生徒たちの中には進んで信仰を受け入れる者も出たのです。「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士が札幌農学校に赴任したのは明治9年ですが、それより先に聖書と農業を教える学校が日本にあったのです。仙は、農学校の校舎を教会の設立式のために開放したり、学校の枠を超えたキリスト教青年会の設立や機関紙の発行にも尽力するなどさまざまな働きを行いました。そして、同志社大学創始者の新島襄、東京帝国大学教授の中村正直と共にキリスト教界の三傑とうたわれました。
また、仙は韓国語聖書の翻訳者、李樹廷をキリストに導いた人でもあります。そのきっかけとなったのは、仙の家の応接室の壁に掲げられていた仙自筆の聖書の御言葉だったということです。その後、李はキリスト教を禁教としていた韓国に戻りキリストを伝えますが、迫害のゆえに殉教したと伝えられています。
晩年の仙
盆と正月しか休みのない明治時代の日本で、仙は毎週日曜日に仕事を休み礼拝を守り続け、それは晩年になっても変わリませんでした。毎年クリスマスには自宅を開放して子供たちを集め子供会を開き、夏には家庭菜園のイチゴ畑に友人知人を招き、もてなしたといいます。仙は71歳の春に、列車の三等座席に座ったまま天に召されました。体調が思わしくないなか、礼拝の司会のためひとりで教会に向かう途中だったのです。誰にも気づかれることなく召されたその容貌には、なんの苦悶の跡もなく、平安のうちに深くキリストに思いを馳せているようでした。
仙の墓には、「わたし(キリスト)を信じる者は死んでも生きるのです。」(聖書 ヨハネの福音書 11章25節)の御言葉が刻まれています。