放蕩息子はだれ?
父から孤立した生き方
父から孤立した生き方

放蕩息子の「遠い国へ」の旅立ちは、父からの独立ではなく、孤立でした。それは親との関係を切り離して、遠い国で自由気ままな生活をしたいと言う欲望でした。これは親子関係を無視した自分本位の生き方です。

私たちもまた、神様に対して、そうなのです。神様を信じると好きなことができないからと勘違いをし、神様から孤立し、神様を無視した生活をしているのです。ここに人間の本末転倒があります。

私たちのいのちは偶然に発生したものではありません。神様が私たちを造られ、今も、生かしてくださっておられるのです。聖書に「神が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」とあります。しかも、私たちが生きて行く上で絶対に必要な衣・食・住は神様によって与えられているものなのです。ですから、私たちは神様に感謝して生きることが当たり前のことなのです。

ある人は言うでしょう「私は神なしでも生きていける」と。確かにそうです。しかしそれは、私たちがたとえ極悪人であったとしても、神様のあわれみゆえに、神様の定めた時期まで生きられるだけです。

しかし、神様を抜きにしては、自分がどこから来て、何のために行き、死後どこへ行くのかという人生の三大問題の回答を得ることはできません。人間は動物と違い理性があります。ですから、私たちが生まれてきた意味、死後の行き先などに対する答えがない限り、私たちの心が満たされないのです。そこに「むなしい」と叫ぶ理由があるのです。

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