信じられない出来事が伝えられた時、決まってたずねる言葉があります。それは「見たのか?」です。事実を確認するには、普通、目撃者が必要です。
ある弁護士さんから聞いたことなのですが、事件の直接の目撃者が肉親以外であれば証拠価値は充分だそうです。しかも目撃者が複数であれば証拠として完璧だ、とのことです。
ではイエス・キリストのよみがえりについてはどうでしょうか。聖書には次のように記されています。
「私(パウロ)があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、...キリストは、...三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中...、大多数は今なお生き残っています。 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に...私にも現れてくださいました。 」(聖書 コリント人への手紙第1 15章3-8節)
このように男子の数だけで500人以上の目撃者がいるのです。しかも、この文書が記録された時には、彼らの多くがまだ生存していたので、それが本当かどうか、いくらでも目撃者といわれる人たちを調べることができたのです。
なぜ本当のことだと信じることかできるのでしょうか。それは、よみがえりの証人が非常に多く存在するからです。「見た」「私も見た」という証人が500人以上もいるのです。しかも繰り返しますが、彼らのほとんどは殉教していったのです。彼らは自分たちの証言が真実であることを、自分たちの命を捨てることで証明したのです。この事実はいったい何を物語っているのでしょうか。