キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。 Tテモテへの手紙1章15節
Home
English

あぁ・・・むなしい
むなしい人生から解放されるには?
なぜ神を無視した人生はむなしいのでしょうか?

いのちの原因者であられる神様のもとに立ち帰り、神様に犯したすべての罪を解決された主イエス・キリストを信じることなのです。神様は、汚れた私たちを見捨てず愛して下さいました。

神のひとり子であられる御子を天からこの世に遣わして下さり、御子によって神様のご存在ばかりか、神様の恵みを示して下さったのです。そして人となられた神の御子主イエス・キリストは、その地上でのご生涯の最後に、私やあなたに代わって、罪の裁きを十字架上で負って下さったのです。

私たちの罪が完全に赦されたものとしての十分な証拠に、御子は死からよみがえられたのです。私たちの罪が赦されるために、恐ろしい地獄の裁きから救われるために、罪のない神の御子が犠牲となったのです。彼を救い主として信じるすべての者は、罪のゆるしが神から与えられ永遠の裁きからも救われ、自分が何のために生まれ、学び、仕事をするのかの真実な意味を知り、変わることのない喜びと天国への希望が与えられるのです。

聖書の中に「放蕩息子」の記事があります。
 それは、罪人である私たちと神様との関係について教え導いているのです。放蕩息子は、父から離れて自分一人になってみたい、そして好き放題のことをやって、思い切り羽を伸ばして青春を楽しもう、と考えました。そう考えたらいても立ってもおられず、ある日、父に言いました。「お父さん。僕の受け継ぐべき財産を分けてください。」 父は息子のわがままな求めに応じて財産を分け与えました。

何もかもまとめて遠い国へ旅立って行く我が子の後姿を断腸の思いで見つめていました。息子の心は未来の世界に向かっていました。新しい経験、スリルに富んだ冒険、肉の欲するままに何でもできる自由に胸を膨らませていました。涙を浮かべて自分を見つめている父の姿などには目もくれずに、彼は前進していったのです。しかし、この青年も御多分にもれず、やがて砂をかむような「悲しみと孤独」に直面するのです。

楽しみは夏の夜の花火のように過ぎ去っていきました。財産は湯水のように使い果たしてしまい、友達には裏切られ、大ききんで国全体が不況におちてしまうのです。とうとう、どん底まで落ち込んでしまいました。そのとき、彼ははじめて、自分の罪の深さと間違った生き方に気づきました。父のもとを離れ、神様を認めずに楽しみを求めてた人生が、どんなにむなしいものかを悟ったのです。彼は心から悔い改めました。ゆるしを乞うために立ち上がって父の家、すなわち神様のところへ帰っていきました。

一方、来る日も来る日も息子の帰りを待ちわびていた父は、罪と汚れで見るかげもなくなった息子を見たとき、走り寄って口づけし、心から歓迎してくれました。そして、「急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。そして肥えた子牛をひいて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と召使たちに命じました。そして彼らは祝宴をはじめたのです。

放蕩息子は、生まれて初めて、本当の楽しみを味わいました。心から満足できる宴会はこれがはじめてでした。天国の喜びを先取りしたような思いが駆けめぐり、感激にむせんだことでしょう。父のもと神のもとを離れた時の楽しみは偽物だったことがよく分かりました。

罪を赦され、死と裁きの問題を解決したとき、人生の様々な楽しみは、真の楽しみに変わってきます。表面的で一時的な快楽ではなく、永続する楽しみ、真実の満足へと変えられるのです。あなたはそのような楽しい人生を味わっているのでしょうか。

主イエス・キリストを心に信じ受入れ、すべての罪を赦していただきたいと願わないでしょうか。彼を信じることによって、決して避けて通れない死と裁きの問題を解決していただこうではありませんか。キリストこそ私たちにとってどうしても必要な救い主なのです。全世界のすべての人々に、すべての宗教の人々に、身分や階級を問わず、子供から老人にいたるあらゆるすべての人々に、キリストはなくてはならない救い主です。

<< 前のページ   1 / 2 / 3   次のページ >>
このページの先頭へ
〒064-0811 札幌市中央区南11条西6丁目2-28
TEL:011-513-5656 FAX:011-513-5677
お問い合わせ先
Home English